笠間焼とは|決まった様式を持たない産地の特徴と、益子焼との関係
笠間焼(かさまやき)を調べると、「これが笠間焼です」と言い切れる見た目が出てきません。産地の記事を読んでも、作家ごとに色も形もばらばらです。これは情報が足りないのではなく、それがこの産地の特徴そのものです。
先に要点を書きます。笠間焼とは、茨城県笠間市を中心につくられる陶器です。江戸時代中期の安永年間(1772〜1781年)に、箱田村の久野半右衛門が信楽の陶工の指導を受けて始めました。甕や摺り鉢といった日用雑器の産地として育ち、戦後に工芸陶器へ転換しています。
この記事では、笠間市・笠間焼協同組合・伝統的工芸品産業振興協会の公式の記述をもとに、笠間焼の歴史と特徴を整理します。そのうえで、瀬戸と美濃で器を焼いている立場から、カフェの器として笠間焼を見るときの判断軸をお伝えします。
笠間焼とは:茨城県笠間市を中心につくられる陶器
笠間焼は国の伝統的工芸品です。伝統的工芸品産業振興協会によれば、指定年月日は平成4年10月8日、主な製造地域は「笠間市、水戸市、石岡市、常陸太田市、ひたちなか市、筑西市他」です。
同協会は、産地の姿をこう書いています。
笠間焼には、200軒ほどの窯元や、陶芸作家、販売店があります。主として手作りの製品で個性的なもの
笠間市の公式サイトは、現在の規模を「約300人の陶芸家や窯元がいる窯業産地」としています。窯元の数ではなく、陶芸家の数で語られる産地だということです。ここが、のちほど触れる「決まった様式がない」につながります。
笠間焼は土からつくる陶器で、石を砕いた原料からつくる磁器とは性格が違います。吸水・強度・口当たり・保温の違いは 陶器と磁器の違い にまとめました。
笠間焼の歴史:信楽の陶工から始まり、日用雑器で育った
笠間市の公式サイトは、始まりをこう書いています。
笠間焼の歴史は江戸時代中期、安永年間(1772~1781年)から始まります
そして、「箱田村(現在の笠間市箱田)の久野半右衛門が、信楽の陶工・長右衛門の指導で焼き物を始め」たとしています。笠間焼協同組合の年表も、1772年(安永年間)に「久野半右衛門道延、信楽陶工長右衛門の指導により、製陶を始める。(箱田焼誕生)」と記しています。
出発点が信楽であることは、笠間焼を理解するうえで押さえておきたい点です。信楽は六古窯のひとつで、土の表情を生かす焼き物の産地です(信楽焼とは)。
その後、笠間焼は笠間藩の仕法窯として保護され、甕・摺り鉢などの日用雑器がつくられました。笠間市は「明治時代には特に厨房用粗陶品の産地として知られていました」としています。台所で毎日使われる道具の産地として育った、という順番です。
協同組合の年表では、1869年(明治2年)ごろから「田中友三郎により、箱田焼と宍戸焼が笠間焼として横浜で販売され、その名が広まる」とあります。箱田焼・宍戸焼という別々の呼び名が、「笠間焼」という産地名にまとまっていく過程です。
笠間焼と益子焼の関係:陶法を学んだ先が笠間だった
笠間焼を調べると、必ず隣の益子焼が出てきます。両者の関係は、協同組合の年表にはっきり書かれています。
1830年(天保元年)4代久野瀬兵衛道等の頃、益子焼陶祖大塚啓三郎が久野窯にて陶法を学ぶ。
1853年(嘉永6年)大塚啓三郎、益子にて開窯する。
つまり、益子焼を始めた大塚啓三郎は、笠間の久野窯で陶法を学んでいます。益子町の公式サイトも、益子焼は「江戸時代末期、笠間で修業した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まる」としています。笠間が先、益子が後という時系列です。
益子焼側から見た歴史と特徴は 益子焼とは に整理しました。笠間と益子は「兄弟産地」と語られることがありますが、公式の記述に沿えば、笠間で学んだ人が益子で開窯した、という具体的な関係です。
ここで注意したいのは、由来が同じでも、いまの器の性格は同じではないことです。益子焼は公式の説明に「たっぷりとした厚手の器」と入る一方、笠間焼の公式説明に形の指定はありません。産地の由来と、いま手元にある器のスペックは、切り分けて確認してください。
笠間焼の特徴:決まった様式を持たないこと
笠間焼協同組合は、この産地の特徴をこう書いています。
多彩なやきものの「顔」が見られる
そして、「伝統的な笠間焼はもちろん、笠間土を使った現代的な表現、さまざまな素材から生まれる新しい技法」があるとし、「表現の多様性」が他に類を見ないとしています。産地としての歩みも「先達の仕事を尊重しながら時代の新しい波を受け入れ、何度も息を吹き返してきた」と説明されています。
土についても記述があります。協同組合は、笠間周辺の地質に触れながら「笠間の粘土はこの花崗岩が風化してできたもの」と書き、御影石とは「年の離れた兄弟のような関係」としています。
戦後の転換も、いまの姿に直結しています。笠間市によれば、終戦後に「プラスティック製品などの流入などにより」需要が減り、「厨房用粗陶品から工芸陶器への転換を図りました」。日用雑器の産地から、作家が集まる産地へ切り替えたわけです。約300人という人数は、その結果です。
釉薬そのものの役割や、マットと光沢の違いは 食器の釉薬とは にまとめています。
「様式がない産地」の器を、カフェで使うということ
私たちCAFORAは瀬戸と美濃で器を焼いています。つくる側から見ると、様式が決まっていない産地の器は、産地名でスペックを推測できないという性質を持ちます。
- 同じ「笠間焼」でも、作家ごとに土・釉薬・厚みが違う。重さも吸水も、器ごとに確認するしかありません
- 食洗機・電子レンジの可否は産地名では決まらない。必ず製品ごとの表示を見てください
- 同じものを買い足せるかが最大の論点。作家ものは、割れたときに同じ形・同じ釉薬が手に入るとは限りません
裏を返せば、1点ずつ違うことを店の個性にできる産地でもあります。器を「揃える」か「揃えない」かは、店の設計の問題です。
そして、重さも口当たりも、写真では分かりません。CAFORAの器も、サンプル で実際に手に取って確かめられます。
カフェの器として笠間焼を見るときの判断軸
1. 産地名ではなく、その器の素材を確認する 笠間焼は陶器の産地ですが、作家によって土も焼き方も違います。素材ごとの性格は 食器の素材の種類 にまとめました。
2. 重さを実物で持って決める 提供と洗浄を1日に何十回とする場では、重さが手首に効きます。
3. 追加発注できるかを最初に聞く 作家が多い産地だからこそ、ここを先に確認してください。割れたあとで探すと、同じものが無いことがあります。
4. 食洗機・電子レンジは製品ごとに確認する 産地では決まりません。表示と窯元の説明を見てください。
日本の産地ごとの性格は 日本の焼き物の種類 に整理しています。
よくある質問
Q. 笠間焼はいつから焼かれていますか 笠間市の公式サイトによれば、笠間焼の歴史は江戸時代中期、安永年間(1772〜1781年)から始まります。箱田村の久野半右衛門が、信楽の陶工・長右衛門の指導で焼き物を始めたのが起点とされています。
Q. 笠間焼はどこでつくられていますか 伝統的工芸品産業振興協会は、主な製造地域を「笠間市、水戸市、石岡市、常陸太田市、ひたちなか市、筑西市他」としています。
Q. 笠間焼と益子焼はどう違いますか 笠間焼協同組合の年表によれば、益子焼の陶祖・大塚啓三郎は1830年(天保元年)ごろに笠間の久野窯で陶法を学び、1853年(嘉永6年)に益子で開窯しました。由来はつながっていますが、いまの器の特徴は同じではありません。益子焼は公式の説明で「厚手の器」とされるのに対し、笠間焼の公式説明には形の指定がなく、表現の多様性が特徴とされています。
Q. 笠間焼は伝統的工芸品ですか はい。伝統的工芸品産業振興協会によれば、指定年月日は平成4年10月8日です。
Q. 笠間焼はカフェの業務用に使えますか 使えます。もともと厨房用の器を焼いてきた産地です。ただし作家ごとに仕様が違うため、重さ・食洗機/電子レンジの可否・追加発注の可否を、産地名ではなく製品ごとに確認してください。
まとめ
笠間焼とは、茨城県笠間市を中心につくられる陶器です。安永年間(1772〜1781年)に、箱田村の久野半右衛門が信楽の陶工・長右衛門の指導で始めました。甕・摺り鉢などの日用雑器、明治期には厨房用粗陶品の産地として育ち、戦後に工芸陶器へ転換しています。
益子焼の陶祖・大塚啓三郎は、笠間の久野窯で陶法を学んでいます(1830年ごろ)。由来はつながっていますが、いまの器の性格は別ものとして見てください。
特徴は、決まった様式を持たないこと。協同組合は「表現の多様性」を他に類を見ない特徴とし、笠間市は約300人の陶芸家・窯元がいるとしています。だからこそ、カフェで使うときは産地名ではなく製品ごとに、重さ・素材・食洗機/電子レンジ・追加発注の可否を確認するのが確実です。
CAFORAは、瀬戸と美濃の技術のうえで、バリスタの理想から器を設計しています。笠間焼の器と比べてみたくなったら、瀬戸・美濃で焼いたラテボウル、両手で包む 温 -ON- と、ラテアートを広く見せる 拡 -KAKU- もご覧ください。サンプルは1点から購入できます。

